日本の看護婦の草分として国際的に活躍した『萩原タケ』さんは、あきる野市五日市出身で郷土にゆかりのある人物として後世に語り継がれております。
萩原タケのあゆみ
明治06年(1873) | 神奈川県西多摩郡五日市村中下宿68番地(現:東京都あきる野市五日市68番地)に父:喜左衛門、母:ちよ の長女として生まれる。 |
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明治26年(1893) |
日赤病院看護婦学生として入学 |
明治29年(1896) |
10月:卒業 |
明治33年(1900) |
北清事変の際、専属病院船「弘済丸」の看護婦長となる。この時フランス兵などの献身的な |
明治36年(1903) |
30歳で日赤病院看護婦福取締役となる。 |
明治40年(1907) |
海外随行員として欧州へ。 |
明治43年(1910) |
37歳で日赤病院看護婦婦監督となる。 |
大正09年(1920) |
第1回フローレンス・ナイチンゲール紀章受賞 世界各国受賞者52名(日本人3名) |
昭和11年(1936) |
5月27日 日赤病院にて63歳で死去 日本赤十字社は病院葬を行なう。 |
明治43年~昭和11年の死去まで、28年間監督として2700名余りの看護婦養成、指導に携わりました。尚、萩原タケさんの墓所は五日市の『広徳寺』にあります。五日市出張所前には胸像があります。
あきる野デジタルアーカイブより抜粋、加筆】
萩原タケさんについては下記ホームページをご参照下さい。